圓照寺についてabout

住職略歴

御所工業高校(現、御所実業高校)、龍谷大学短期大学部、中央仏教学院を卒業。
幼い頃から身体を動かす事が好きで、中学・高校時代はラグビー、現在もブラジリアン柔術を中心とした格闘技を嗜んでいる。
人との関わりやコミュニケーションを大切にしており、短期大学部では社会福祉を学び、保育士資格を取得している。
千葉県市原市のお寺で法務員を経験後、バックパッカーとして世界各国を旅して様々な宗教や文化に触れる。
帰国後、生まれ育った自坊へ戻り、2022年に圓照寺第15世住職を継職し現在に至る。

圓照寺のあゆみ

圓照寺の始まりは、天文十五年(1546年)に遡ります。
当寺の伝えによると、桑山修理大夫重晴の一門である桑山源吾(笑雲)は、禅宗僧として大和国王寺村(現在の王寺町)の達磨寺に住していました。その後、本願寺第十代証如上人から浄土真宗の教えを受けて御所の地に一宇を建立しました。このお寺は、証如上人より「浄徳寺」の寺号を授かりました。
慶長五年(1600年)には、桑山重晴の次男である桑山元晴が、御所の地に隣接する土地を寄進し、寺を中心とした町づくりが進められました。これが現在の御所まちの礎となり、圓照寺は地域の発展とともに歩みを重ねていきました。
その後、慶長十九年(1614年)に本願寺第十二代准如上人から改めて「圓照寺」の寺号を授かり、本願寺の掛所として「御坊」となりました。以来、「御所御坊」として親しまれ、地域の門徒や人々の信仰の中心的な役割を担うようになりました。
江戸時代には、大和五箇所御坊の一つとして、西本願寺教団の重要な役割を果たしました。本山と地域寺院との橋渡し役として、多くの寺院をまとめながら、お念仏のみ教えを伝え続けてきました。
また、西本願寺の門主が大和を訪れる際には、たびたび圓照寺に立ち寄られ、親鸞聖人や蓮如上人の年忌法要が営まれました。その際には、300人を超える大行列が御所のまちを彩り、多くの門徒がお剃刀(帰敬式)を受けるために集まり、大変な賑わいを見せたと伝えられています。
さらに、創建当初より東御所町の管理にも深く関わり、地域の人々の暮らしと密接な関係を築きながら、信仰の拠り所として親しまれてきました。
明治9年(1876年)に掛所御坊の制度は廃止され、圓照寺は一般寺院となりましたが、現在もなお「御所の御坊さん」として、地域の皆さまに親しまれています。

圓照寺の建物

創建当初の建物についての記録は残されていませんが、圓照寺では御所御坊としての役割を担うなかで、
本堂・対面所・表門(大門)・鐘楼堂・太鼓楼・庫裏などが整備され、その姿が形づくられてきました。
いずれも圓照寺の歴史と歩みを今に伝える大切な建物です。ここでは、それぞれの建物についてご紹介いたします。

  • 本堂

    圓照寺の本堂は、創建当初からの本堂の老朽化が進んだことに加え、寛政3年(1791年)8月の台風による大きな被害を受けたため、再建が計画されました。寛政9年から工事に取りかかりましたが、文政2年(1819年)夏の地震のために再建中の本堂が大きな破損を受け、さらに翌年には大雨で内陣まで雨漏りがするような被害を受けることとなったためあらためて再建を願い出ました。
    そして再建工事から、約33年の歳月を費やして、天保2年(1831年)に現在の本堂が完成しました。
    本堂の規模は、十一間四面総欅造りで、大和国内の真宗寺院の中でも最大級の規模を誇り、まさに御坊としての風格と威厳をたたえています。

  • 対面所

    対面所は、ご門主が来院した際に、周辺寺院の僧侶や門信徒との対面を行なうための御坊特有の建物です。
    現在の対面所は天保6年(1835年)に再建されたもので、ご門主の出入り口となる大玄関や、ご門主と寺院関係者が対面する対面所、居室にあたる御成之間が備えられています。当時の御坊としての格式を今に伝える貴重な建築です。

  • 表門(大門)

    創建当初の表門は簡素なもので、東西二間と南北三間半の大きさで、江戸時代を通じて建て替えられなかったようです。
    表門は永年の老朽化が進んだっため、明治12年に再建を願い出ました。そして同25年には新たな障壁の工事が行われこの時表門は完成しました。
    また、築地塀の再建が計画され、これも明治25年に実現することになりました。

  • 鐘楼堂

    創建当初の鐘楼堂は、安永8年(1779年)9月に再建が願い出され、翌年には工事が完了したと伝えられています。
    たび重なる災害を受け、令和二年に現在の鐘楼が整備されました。境内に響く鐘の音は、地域の人々に時を知らせるだけでなく、仏教の教えを伝える大切な役割を果たしています。

  • 太鼓楼

    江戸時代初めには大玄関の辺りにありましたが、江戸時代後期には現在のようになりました。
    現在も保管されている太鼓は、時刻を知らせたり法要開始の案内に使われておりました。

圓照寺 寺内町

お寺を中心に発展した
歴史あるまち並み

圓照寺の周辺には、寺院を中心として形成された「寺内町(じないちょう)」が広がっています。寺内町とは、寺院を中心に人々が暮らしを営み、町が発展していった歴史的なまち並みのことをいいます。
慶長五年(1600年)、東御所の領主であった桑山氏の寄進により町の整備が進められ、圓照寺を中心とした門前町が形づくられました。道路や水路が計画的に整備され、現在もその面影を残しています。
江戸時代には「御所御坊」として広く親しまれ、地域の人々の暮らしや信仰の中心として重要な役割を担ってきました。町には多くの人々が集い、圓照寺とともに歴史を紡いできました。
現在も、往時のまちの姿を感じられる貴重な景観が受け継がれており、圓照寺と寺内町は、御所の歴史と文化を今に伝える大切な存在となっています。

近現代の圓照寺

明治・大正・昭和・平成の激動の時代のなか、圓照寺は門信徒の皆さんの護持によって、法灯を守り続けてきました。
しかしそのあゆみのなかで、平成10年の台風、平成30年の地震によって甚大な被害を受け、修復を余儀なくされました。
当時の住職であった、桑山信と御守であった桑山裕子が中心となり、門信徒の皆さんをはじめとする多くの方々のご尽力により、平成大修復が執り行われ、令和2年(2020年)に実に24年という歳月にわたるすべての修復事業を終えることができました。
ここに改めて、お礼を申し上げさせていただきます。